天草四郎、最後の聖地

今回は皆さんがご存知の江戸時代初期に起きた、島原・天草一揆の乱の総大将、天草四郎をご紹介します。名前は「天草四郎時貞」とも呼ばれていますよね。

呼び方は特に、アジア圏の呼び方だそうです。洗礼名は「ジェロニモ」。一度棄教し、あらたに、「フランシスコ」となりました。

彼はなぜ聖地で生涯を終えなければいけなかったのか、解説していきます。

天草で生まれた少年

1621年2月28日、天草四郎(本名・益田四郎)は肥後国南半球キリシタン大名であった小西行長の遺臣・益田好次の子として母の実家である天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれました。小西氏が滅亡後、浪人百姓として宇土に居住したといいいます。《出生地はいまだ諸説あり》

天草四郎像

生涯については不明な点が多いですが、生まれながらにしてカリスマ性があったそうです。経済的にも恵まれ、優れた教養もあったのでキリシタンなどの間で救世主として擁立、神格化されたと考えられており、海面を歩いたなどの奇跡を起こしたという説もあります。

島原・天草一揆の始まり

1637年12月11日、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆である、幕末以前では最後の本格的な内戦である、島原・天草一揆(島原の乱)が起こります。一揆の起こった経緯として、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に困り、これに加え藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害・飢饉の被害が加わり、両藩に対して起こった反乱です。

百姓といってもこの時は、零細農民(生産性が悪く、農地が少ない生計を立てるのに厳しい環境の農民)や手下をかかえた農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者もまとめてのことです。四郎はカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となります。

実際には、一揆に計画・指揮していたのは浪人・庄屋たちで、四郎は戦意高揚のために利用されたと見られています。

故郷の人や聖地への思いを貫いた、四郎

一揆軍は廃城となっていた原城(口之津)に立てこもり、3か月に及ぶ立て籠城戦を続けましたが、食料も弾薬も底をつき、原城は陥落し、反乱の最終局面で立てこもっていた幕府軍の総攻撃によって、全滅させられました。(一揆軍、3万7千人犠牲。)四郎の原城陥落後の生死は今も不明です。

しかし、キリスト教では自殺が禁じられているため、自害説は薄く、死後に首を切断されて幕府に送られ、長崎の原城大手町前にて晒されたとも伝えられています。最終的には四郎の首かどうかも分かっていません。

ただ、幕府軍に捕らえられた四郎の母(洗礼名:マルタ)は四郎の首を見せられると悲嘆し、泣き崩れたとのことです。【「肥前国有馬戦記」より】天草四郎は15歳(17歳の説あり)の若さでこの世を去ったことになります。

その後、無念にもキリストが一揆の拠り所とされてしまい、鎮圧の1年半後~1854年まで約220年間、鎖国が続きました。死後、四郎の母が建立したと思われる墓石が後年、民家の石垣から発見され、原城跡に移築されています。

そして、熊本にも大江天主堂、上天草市に天草四郎メモリアルホールなどがあります。天草四郎の銅像も長崎、熊本にもあります。

大江天主堂

天草四郎メモリアルホール

現代でも彼の勇士は伝えられていますが、辞世の句があります。

「今、籠城しているものは、来世まで友となる」

(今ここで。最後まで一緒にいる君たちはたとえ死んでも来世に行ってもずっと仲間)

四郎が生涯、キリスト教に忠誠を誓い、仲間と聖地への思いを貫いて真っ直ぐに向かって逝った姿が、思い浮かびます。そんな忠誠さ、仲間を思う心を大事にしていきたいものです。

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