元祖ゆるキャラ!熊本名物玩具「おばけの金太」のルーツを探る

熊本郷土玩具のからくり人形「おばけの金太」をご存知でしょうか?大きな目玉が印象的なこのからくり人形は、熊本城を築城した名君「加藤清正」にもかわいがられた人気者の足軽「金太」がモデルとなったといわれています。

別名「目くり出し人形」とも呼ばれるように、大きな目玉が特徴となっており、そのユーモラスな表情は今も昔も熊本の子供たちのおもちゃとして愛されてきました。いわば人気の「くまモン」に先駆けて江戸時代に誕生した元祖「ゆるキャラ」ともいえるでしょう。

現在ではストラップなどのマスコットとしてヒット商品となっており、俄然人気キャラとなっている「おばけの金太」。この記事では元祖熊本ゆるキャラ「おばけの金太」の誕生秘話などについてご紹介させていただきます。

足軽「金太」が活躍した「熊本城築城」

安土桃山時代から江戸時代にかけて熊本を治めていた加藤清正が残した「熊本城」は、現在も日本三名城の一つとしてよく知られています。54万石の城下町にふさわしく、「清正流」と呼ばれる弧を描く威風堂々とした石垣、壮麗な大天守と小天守、30近い強固な城門を持つ壮大な城は東京ドーム21個分の広さがあります。

復旧工事中の熊本城

土木技術の知識があり、建築に意欲的だった清正公は、現在の滋賀県から呼び寄せた石工に長けた「穴太衆」他当時の最新の技術を熊本城築城につぎ込みました。また、名君と慕われた加藤清正港のお城作りとあって、配下の足軽、町人たちはこぞって築城に参加したといわれています。

にぎやかな雰囲気の中で進む城作りの中で、「お化けの金太」のモデルとなった足軽金太のおどけた様子で人を笑わせるさまが目に浮かんできます。残念なことに西南戦争の前後に天守など本丸にあたる建物が焼失し、2016年4月の熊本地震の際には石垣や櫓などが被災しています。

現在も懸命な復興作業が続けられています。

「おばけの金太」誕生秘話

「おばけの金太」のルーツは、足軽金太のエピソードから着想を得た「西陣屋彦七」という人形師が作ったからくり人形です。京都から熊本に移り住んだ「西陣屋新左衛門」の5代目にあたり、代々家業となっていた雛人形や祭り人形など行事用の人形を作っていました。

ある日ふと、足軽金太の伝説をもとに木と紙で現在の「おばけの金太」を作って店に出したところ、これがまたたく間に人気者となりました。それほど「足軽金太」のエピソードは広く庶民に親しまれていたのでしょう。

「おばけの金太」は誕生当時と全くからくりの仕組みは変わっていません。紐を引くと舌を出し、目玉がぐるりと回る、おどけた表情にかわります。

このひもを引くとがらりと表情が変わるからくりが見た人を驚かせるので、いつの間にかこのからくり人形は「おばけの金太」と呼ばれるようになりました。真っ赤な色は、病気除けや魔よけの意味を持ち、子供たちの成長を願う親の気持ちが込められているといわれています。

父親から息子へと受け継がれる「おばけの金太」作り

伝統工芸において後継者育成は、どの分野においても深刻な問題となっています。「おばけの金太」も、西陣屋新左衛門の10代目にあたる「厚賀新八郎」さんのほか、製作者が一人もいない状況が続いていました。

そしてこの2018年息子の「厚賀新太郎(本名は俊男)」さんが、11代目となり、金太作りを受け継具ことになりました。単純な作りにみえる「おばけの金太」は、木と紙を胡粉(ごふん)と膠(にかわ)で形作る、伝統の人形作りの技術を駆使して作られています。

2018年3月に熊本市内で開かれた展示会でデビューを飾った新太郎氏によって、今後も変わらぬ「おばけの金太」の姿と再会することができるでしょう。

おばけの金太

「おばけの金太」は熊本の歴史と京都のモノづくりのシンボルだった!

黒い三角の烏帽子に真っ赤な顔に大きな目玉、子供ならずとも思わずほほえんでしまう「おばけの金太」のかわいらしい姿の陰には、ご紹介したような熊本城築城の歴史、京都の人形作りの技、そして熊本工芸の明日を担う後継者の努力など、様々なストーリーが背景にありました。誕生から数百年経った現在臭いて今なお「おばけの金太」は人々に愛され、「熊本県伝統工芸館」やイオンモール熊本内のショップ「倭物やカヤ」で出会うことができます。

ぜひ熊本元祖ゆるキャラ「おばけの金太」を手に取ってみてください。

倭物やカヤ

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