「西郷どん」最期の戦い西南戦争。不落の城、熊本城

今から約140年前の1877年に起こった、「西郷どん」こと西郷隆盛の最期の戦いとなる西南戦争。以前の記事での田原坂の戦いに続き、薩摩軍が苦しんだ熊本城籠城戦についてまとめてみました。

未だ議論の続く、熊本城出火

西南戦争の起こった当時、熊本城は明治政府の管轄下にありました。鎮台という陸軍の部隊が熊本鎮台として熊本城におかれていました。

政府に不満を持つ西郷率いる薩摩軍は、まずこの熊本鎮台を落とそうと熊本城に向かいました。その薩摩軍が到着するのより前のこと、突然熊本城内で火災が起こりました。

この火災で結果的に天守閣と本丸御殿一帯が焼けてしまいました。この火災の原因が今もたびたび議論の話題となっており、当時の城内にいた者の日記や電報などの情報から士気を上げるために政府軍が自ら火をつけたのではないかという「自焼説」が最も有力とされています。

本丸御殿

しかしこの「自焼説」はこの後の戦のことを考えるとあまりにも計画性に欠けているため、「放火説」「失火説」の可能性も捨てきれず未だに本当のことはわかっておらず、熊本城の一つの謎です。

52日間にわたる熊本城籠城

火災の後、2月21日に薩摩軍は熊本城に到着し、長い戦いが幕をあけます。

薩摩軍による総攻撃

翌日、22日。薩摩軍は総攻撃を始めます。しかし、城を落とすためのはっきりとした作戦らしい作戦はありませんでした。

そのためか、力任せな総攻撃が始まります。薩軍は城の東側、西側の両側から攻め始めました。

この時、薩摩軍が約14,000人に対し、政府軍は約4,000人でした。しかし、なかなか思うようには城内まで攻め入ることができませんでした。

22日の夜に薩摩軍は作戦会議を開き、主戦力の温存などの面から長囲策への作戦変更を考えますが、中々すぐには戦略を変えることができず24日までの3日間もこのまま総攻撃による戦いが続きました。

兵糧攻め

政府軍の食糧を尽きさせることで城を落とすという薩摩軍の作戦に、政府軍は肉体的にも精神的にも苦しむことになりました。しかし、福岡方面からやってくる政府軍の援軍を迎え撃つために、薩摩軍は北方に軍を送っていました。

さらに3月に入り北方の戦線が苦しくなり増援のため城に残る薩摩兵は減少しました。少ない兵で巨大な熊本城を攻めることに難航した薩摩軍は、3月26日、城を囲むように流れている坪井川と井芹川の合流点をせき止めることで水を城の周囲に引き込み水攻めを行いました。

坪井川

これによって熊本城の周囲は水没しました。しかし、平山城である熊本城を沈めることはできませんでした。

このあとも薩摩軍は果敢に城に挑みますが、20日に田原坂が突破されていたこともあり、ついに4月14日薩摩軍の熊本城の包囲がとけ、籠城戦は幕を閉じました。

死してもなお、城を守った清正

熊本城は、1467年に築かれた千葉城に始まるといわれています。そののち、隈本城として新たに城を築きます。

現在の姿の熊本城は、1607年、城づくりの名人として名高い加藤清正によって築かれました。かつての千葉城、隈本城を含み、大天守、小天守、宇土櫓、などを中心に構成された大城郭で周囲は5.3kmもあります。

西側には山地と井芹川、南側は坪井川、白川が熊本城を囲まれており、要塞を作り上げています。熊本城の竹の丸から飯田丸への虎口(城の出入り口)はカクカクと曲がりながら登らなくてはいけません。

竹の丸・石垣

飯田丸五階櫓

さらにその上の石垣の上に並んだ櫓から通路を通る侵入者を攻撃するという二段構えになっており薩摩軍が侵入すること自体が困難だったことが理解できます。特に宇土櫓は高さが約20mもあります。

そのため、城に籠る政府軍はこの高い石垣を利用して、薩摩軍を上から射撃して城を守っていたのではないでしょうか。有名な話ですが、西郷隆盛は自害する前に「おいどんは政府軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言っていたとか。

この言葉からも、熊本城の防衛能力がいかに高かったのがわかります。

熊本地震後の熊本城

現在、2016年度の震災で被害は受けてはいますが、それでもなお歴史を感じさせてくれます。見に行って損はないと思います。

熊本城の復旧工事

飯田丸五階櫓の復旧工事

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